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生と性。わたしの尊厳を取り戻すために





性教育とは生命についての科学と歴史を学ぶこと

先日、性教育についての講習、ワークショップに参加してきました。

講師は津山の『かたつむり助産院』を開業していらっしゃいます澁谷奈津美先生でした。


自分の息子が今4歳になりますけど、彼が奈津美先生のところで産まれて取り上げていただいて、うちの娘もその出産の時に立ち会いました。

彼がお乳を飲んでとか日々過ごしていくのを一緒に体感させてもらった助産院さんで、妊娠期間中からのお付き合いになるので5年ぐらいになります。

木舎の活動を本当に応援してくださってくれているありがたい友人です。


奈津美さんの性教育講座についてずっとずっと受けたいなぁと思ってたんですけども、ようやくその時が来たなぁって感じでした。

津山市の子どもたちの活動を支援されていたり親同士が集う語り場っていうのを開催していらっしゃる『支え合い育ちあい根っとわーく あんあん』さんが主催で講座が行われました

子どもの保育まで無料であって、ボランティアのおばあさんたちが子どもたちを見てくれてありがたいなぁっていう感じでした。

さら思いがけずっていうんですかね、知り合いの保育士さんとか出会えて一緒にわいわいと性教育について学ぶチャンスがあったんです。

すごい楽しくて楽しくてもっとやりたいっていう感じの講座でした。


途中からワークショップ形式になっていて、シチュエーション別に性にまつわる子どもからのこんな質問が来たらどう答える?みたいなのがすごい楽しくて、ドギマギしながらお母さんたちお父さんたちもどうしたらいいんだろうと一緒に悩んでましたね。

そこで語られた内容っていうのが本当に僕も考えてなかったことをワーッと掘り起こしてくれたなぁっていう思いがいっぱい出てきましたね。


大学の頃に上野千鶴子先生フェミニズムの話、研究に初めて触れたことがあって、ジェンダーって言葉もそこで初めて聞いて、性について考える場面っていうのがたくさんあったなっていうのを思い出したりしました。


特にやっぱり子どもに対して性を語るっていう時に大人側にブロックっていうかね、語っちゃいけないものというか、恥ずかしいとかどう対処したらいいんだろうっていうおどおどした感じっていうのが潜んでいて、それがみんな出てくるんだなぁっていうのを実感しました。

僕自身があるのかって言ったら、ありますね。やっぱりドギマギするし、語ることっていうのはすごい難しいもんなんだなっていうのは思いました。

一方で僕の中の体験っていうのも重なっていて、それを講座を聞いていくうちにすごく思い出して、そうだなそうだなって実感したことがあります。


まずは、奈津美先生が教えてくれた中で、性、セックスについてどう思いますか? ということで、10代のセックスって聞いたら、どういうふうに思うか? っていうのがあったんですけども、社会では10代のセックスって「問題行動」っていうふうに捉えるでしょうと。

大人のセックスっていうのはどうですか?

これもね、一般的には表沙汰にはしないけれども、「問題行為」みたいなものに入ってくるんじゃないかと。

性はそれだけ取り上げにくいし、なかなか肯定しにくいものとして扱われているんだけども、こういう背景には、実は自分たちの元々持っている考えではなくて、環境にまつわるものが多いんだと。

その環境の中でも特に政治的なこと、文化的なこと、宗教にまつわることっていうのを背景にして、この性がいわば封印されるっていうんですかね、ちょっとコントロールされちゃったんだっていうふうに教えてもらって、ああ、そうか、そうだったわ、みたいな感じで僕からすると分かってなかったなあっていう。

分かってたはずなのに分かってなかったなっていうところのショックですね。

そういう衝撃がありました。

性は環境によって定義される


政治に利用されるっていうのはどういうことかっていうと、権力者が権力を握り続けたいっていうところがあると思うんですけども、その権力構造からして、子どもっていうのはエネルギーの一つ、労働の一つだと捉えて考えると、子どもをたくさん増やして産んでっていうことは、働き手が増えるっていうふうに考える。

昔はね、子どもは小さな大人として、何か守られるっていう存在ではなくて、どんどんどんどん産んで増やして働かせる。

そのために子どもを増やしたんだっていう考え方はあったようで、今みたいに子どもは可愛くて、守らなきゃいけなくて、子どもは子どもとして権利を持っていてっていうような考え方じゃなかった時代は長かったですね。

特にヨーロッパがそうなのかなあとか思うんですけども。

産業革命で労働者をどんどん増やさなきゃいけない、兵隊も増やしていく、国を強くしなきゃいけないって時に学校制度も始まりますね。

それまで子どもは親について、親のやることを真似して覚えるんだ、みたいな職人みたいな教育だったと思うんですけども、そこからそういう人たちが工場に連れてこられて、ある一定の機械みたいに動いてもらうのが一番効率がいいので、そういう効率のいい人間を育てるためにどうしたらいいのか、あるいは兵隊に命令に従う人間にさせるにはどうしたらいいかっていうのが、学校制度の始まりなんじゃないかっていう話っていうのは僕は聞いたことがあって、これと権力っていうのはすごくつながってるわけですね。


子どもを増やすっていうことを国は制度として大事にしてきたところがある。

そうすると性をコントロール、バースコントロールっていう言葉があるらしいんですけども、国は産むとか性についてすごく大事に、言ったら、産め増やせっていう感じ。

男性側からすると女性は産む機械だっていう考え方につながってて、物のように扱っていく。

これが家族の中では家父長制度、お父さんが権力を持って、その権力を子どもに対してだったりとか、特に女性に対して利益を守るためには物として所有物として扱うっていうような考え方につながっていて、その性っていうのは搾取されるっていうものだったりする。

純潔教育っていうかね、それは例えば宗教の方から出てくるみたいですけども、宗教では貞操を守るとかね、そういった考え方がある。

男の人の方が偉いんだみたいな考え方もありますよね。キリスト教、元々はそうじゃなかったように思うんですけども、僕らが知っているキリスト教って、アダムとイブで言えば、アダムの方が偉いんだっていう風にはよく聞いてる気はします。

間違っていたらごめんなさい。

そういう風に聞いたことが僕はあるんですけど、そういう政治と宗教が西欧コントロールしたこと。

隠すとチカラが生まれる

隠すっていうことで力を持つようになってくるっていうんですかね。

隠されると覗きたくなるっていうんですかね、そこに秘密が生まれると人って欲を持つんですね。

そこにお金が集まってくるっていうんですかね。

僕がなんで自分のこれまでの経験のことって、あーとかうーとかなったかっていうと、アフリカに行ったことは僕の中で大きいんだろうなって思いますね。

アフリカでも僕が行った場所でケニアとか、特にエチオピアの高地ではなくて低地、高地と低地では2000メートルぐらい確か高度が違うんですけども。

2000メートル上のところなんて、日中20度とか25度ぐらいのところで、日差しは強いですけども、すごく過ごしやすくて、逆に寒くて温泉に入ったりとか、そういう楽しいこともありましたけども。

低いところ100メートルとか、50メートルぐらいの低地に行くと、平均50度ぐらいなる場所があったりして、そういうところの部族なんか今思い出すのはトルカナ族っていうのがあったような気がするんですけども。

いろんな部族とその時出会ったんですけども、僕が奥の方に入って、たまたま日本人の研究者に出会ってある部族を2年間現地で調査してました。そういう場所に行くと、女の人も男の人も上半身裸で過ごしてて、おっぱいを赤ちゃんにあげてたりもするし、腰周りぐらいかな、なんか身につけてたりする。

若い女の子でも胸バーンって出して、一緒に男の子と一緒に遊んでたりとかしてっていう感じで、恥ずかしいと思う自分が恥ずかしいなっていう感じですかね。

それを見て自分がこうドギマギしてる自分っていうのは、なんか汚れちゃってるな俺、みたいな感じが体験としてありましたね。


そういう体験を過ごしてから日本に帰ってくると、隠されてるものに対して出すっていうことが、それをひけらかすっていうことっていうのは、これいけないことだし、それを出してもいいのは特別な時っていう感じ出てくるでしょうね。

まあ、マスクなんかそうですよね。

マスクしてなかった時期っていうのはマスクしてる方が恥ずかしかったのが、今マスクしてるのが正式でマスク外すっていうのはちょっと恥ずかしい、プライベートなとこでしょうってとこまで来てると思いますね。


そうやって隠されるっていうのはエネルギーがあることで、そのエネルギーは生まれてくるんですよね。

そこに見せるっていうのは特別感を出したりとかして、あなただけに見せるわよみたいな感じになってくるのかな。

なんか、やらしいですよね、こういうのってね。


バーンって普通に開けっ広げにしてる時って本当にエネルギーはないって言うんですかね。

なんて言うんだろう、口を出して唇を見せてる。

別に3年前コロナが発生してなかった頃思い出してもらってもなんてことはないはずだったんですけども、今は多分思い切ってマスクを外してみましたぐらいになってるかもしれませんね。

ちょっとマスクに関しては、今後どうなっていくのか全然わからないんですけども。

なかなか人が隠したものっていうのは、出しにくいってのはあると思いますね。


隠さなきゃいけないっていうのも法律で決まってますから、性器を出してはいけないっていう法律がありますから、出すっていう時にはその特別なところでしかないわけですね。

それは恥ずかしいことだからもうドキドキしちゃうわけです。

子どもってそういう文化文明というのはこれから学ぶ存在だと思いますけども、大人からしてみるとなんで子どもがそれをわかってないのかがわかんなくなっちゃってますね。

どうしてマスク外していいのか外さなきゃいけないのか、あるいはつけなきゃいけない、外すと恥ずかしいって思ってるっていうのは子どもにとってみたら意味がわからんみたいなもので、大人にとってパンツを履くっていうことが当たり前になっているなか、子どもがパンツを履かないっていうことの自由さというかね自然さっていうのがもう意味わかんなくなっちゃってますね。


だから子どもの質問でこう聞かれたらどうですかっていうシチュエーションに関して言うと、本当に大半の方はドギマギしちゃってどう答えたらいいのかいろいろ考えますっていうことが多いんだなぁと思いました。

困っちゃいますよね。

3つシチュエーションの質問があったと思うんですけども、今日はその性教育そのものを語るやつではないので例は出さないでおこうかなぁと思うんですけども、やっぱりどんなシチュエーションでも親としてはあるいは大人としては子どもに対応したらいいのかというところはすごく心に残ったことでした。

なんでそんなことするのとか、なんでそんなこと聞くのって言って頭ごなしに怒らないないで、そうかそういうのを知りたいんかっていう感じですかね。

それから、話を逸らさない。

考えもしなかったようなことを聞かれてたりする時があると思うんですけど、話を逸らしてしまうとその子はそのことに対して興味を持った瞬間なのに、何でかそれを聞きたくなった。

それはおそらくいろいろ仕入れてきた何か情報があると思うんです。

そこの情報がどうやってそれを知ったかということも聞いてあげたらいろんな対処の仕方もあるだろうし、本当に素直に聞いている場合だったらそれはそれでちゃんと答えてあげなきゃいけないことで話を逸らさないっていうのがありましたね。


親が隠さず素直に、科学的に、ドギマギするという気持ちを語ることで、子どもは性の大切さを理解する

もう一つはごまかさないっていうのもありましたかね。

答えについてちょっと時間が欲しいってお願いしてもいいと思うんですけども、「素直に答えていこう」ということですね。

自分の気持ちも今、心の準備がということで言いにくい時は、そういう質問はドキドキするんだけど大事なことだからちゃんと答えたいと思うから調べさせてとかね。

そうやって素直に言ってあげるといいんじゃないかって。


それから場合によるかなって思いながらもそれは大事なことだなっていうことの一つで、科学者になって答えてみよう、科学的に答えてみようっていう。

科学的っていうのは第三者から見てもはっきりとわかっていること。

自分の主観的ではないところの部分ですかね。

例えば昆虫でも交尾っていうのがあるよねとかも科学的ですよね。

精子とか卵子とかっていう言葉を使ってもいいと思いますし、すごい科学的に答えてみよう。

そういう科学的に短くストレートにポンと投げかけた言葉に対して、子どもって親の持っているドギマギっていうのは関係ないんで、そうなんっていうことで終わっちゃうんだっていうふうに奈津美さんが教えてくれました。

僕もそうだろうなぁって思いますね。

ドギマギするのって後で流れてくる不完全な興味本位の情報っていうのが後から自分たちの中に植えつけられた先入観として、口に出しちゃいけない、恥ずかしいと思ってくるんだろうなって思います。

権力から取り戻された性は人権である

人権とは自分を大切にすること、大切にされるべき存在であるということ

権力と結びついてる性についてはさっき話をしましたけど、僕は権力の反対は何か?をかんがえています。

それは「人は子どもも大人も権利を持っている」(=人権)というところが、権力とは全く逆方向のこれからの時代を大事に考えるためのツールなのかなと思ってます。

権利って言うと憲法で保障されたみたいな堅いものになっちゃうと思うんですけど、それはそれで大事なことで、考え方としてはいいんですけども僕の思ってる権利っていうのはこんなふうに考えたりするんです。

権利とは、何々する権利、何々を保証するとかっていうこと。

大人であれ子どもであれ、僕が思う権利は、「自分を大切にすること」

それから「自分は大切にされるべき存在である」ということ。


これが権利っていう言葉と繋がってるっていうんですかね。

権利はそうゆうことなんじゃないかっていう風に僕の中で訳してるっていうんです。

自分って大事じゃない存在だって思いがあって、家父長性で言えば女性は男性よりも大事ではないって思いがちになってる。

お父さんが1番偉くて、娘である私はあるいは嫁である私はそんなに大事じゃないやっていう風に思わされちゃったりすると、それはモラスハラスメントっていう言葉になったり。

まあ、ドメスティックバイオレンスの1つになってくるのかなと思いますね。

それに気づかない人が自分は大切じゃないって思っちゃってて、傷ついてると思うんですけども、それに気づいていない人がいるんだろうなって思います。

自分は大切にされるべき存在だし、自分は自分を大切にする。

大事な仕事をこの一生のうちでしなければならないし、することが大事だってことです。


それが出来るとこが私の最もやりたいことである。

これがその権利だし、義務であるし、自分の人生においての喜びになるだろうなと思います。


こんなことを性教育の講座を受けながら考えたりしました。


性に対する認知を歪めないために、

痛みを持つ感覚と気持ちを代弁する人がいる大切さ


もう1つ僕が強く思ったのは性に対する自分たちのブロックがなくなっている状態ってのはどういうことか。

こういうお話として、マンガとかドラマで、壁ドンとかってね、昔あって、お俺のこと好きなんだろうみたいなシチュエーションで、いや嫌いだって言ったとしても、いやいやそんなこと言って俺のこと好きなくせにみたいになって、キスをするみたいなシーンがあると。

そういうのって本当に嫌だって思ってるのが伝わってないし、男の方からすると嫌だって言われるのは「嫌よ嫌よも好きのうち」みたいに捉えられて女性の反応っていうのが、まるっきり間違ったように捉えられてしまうっていうのが多々あると。

これって認知がまず狂っちゃってるなって思うんですよね。

男性の認知がおかしい。

男性の認知がなんでおかしいかっていうと、嫌だっていう言葉をまっすぐ嫌だと捉えられなくなっちゃってるっていう認知ですよね。

これって子どもとのやり取りで、こういうことって本当にたくさんあるなと思ってて、嫌だって言ったことを相手が聞かないってことがたくさんある。嫌だ自体はわかってるんだけども。

嫌がらせをしてる方からの論理が強く出ちゃってて、相手がどう捉えてるかってことは気にせずやってしまう。

ここに大人の声かけの仕方、介入の仕方の大事さが僕はあるなーってつくづく思ってます。

それは子どものやってる嫌な行為をしてることに対してダメだって言うのは、この考え方が間違ってるっていう指摘だけで、その子の考え方のさらに深く考えるっていうことを阻害してしまっちゃうんですよね。


だから間違ったことをしてるなって思ったとしても、その子を否定するのではなくて、その子の「認知を変えるヒントを出してあげる」ことだと僕は思ってます。


嫌だって言ってるよねって、どう思うっていうふうに促していく。

そうすると本当だ、嫌だって言ってるわ、どう思うかって、こういうことされると嫌なんだって、痛いと思ってるんだ、怖いと思ってるんだよっていう感覚の方を伝えていく。


何か叩いてしまってる子がいたとして、叩きたくなったんだよねってことは認めたらいいと思うんですね。

何かあったんだよね、何かあったから叩こうとしてるよね。

というふうにその子の思いっていうのはまず受け止めていく。

その後、相手となっている子どもの感覚、感情っていうのも伝えてあげる。

それでどう思うっていうふうに聞くと、相手はこう思ってるのか、私はこう思ってるのかって分かった時点で、彼ら考え始めるチャンスがたくさん生まれて、その行動が変わってくるんですよね。

そういう訓練っていうんですかね、僕は何度も何度も子どもたちの喧嘩についてはそういうふうに対処してるんですけども、ある一定の成果っていうのを感じてます。

性教育においての男性優位に立った権力を持った側からしてのいい加減な認知っていうのは、子どもの時にほとんどが培われたんじゃないかなっていうふうに思って聞いてました。

これは今後の子どもたち、育てる大人の大きな課題になってくるし、その大人たちはもうすでに育てられちゃってるので、権力を握ってしまった男性ってのは権力を手放したくないっていうのは本当にあると思いますね。

女性としては権力を失った状態を当たり前と思ってしまう人もたくさんいるだろうなと思いますね。

ここが変わっていって卵が先かニワトリが先かなんですけども、卵が先じゃないって言うんですかね。

ニワトリの方が、親がどう変われるか、それをどう認知していくか、自分たちはこんなにも歪んだ認知しているっていうことが分かるかどうか。

認知を変えるのは難しいなって思ってるんですけども、それを変えさせてくれるチャンスを持ってるのは子どもとの出会いですね。


子どもが思った通りに育ってくれないって言った時に、子どもが間違ってるのではなくて、親の認識がおかしいんじゃないかと気づくチャンス。

そこに出会えるのが子どもとの出会いかなとか思ったりします。


というわけで、今日は性教育を通じて考えた子育てについて、奈津美さんからたくさんのことを教えてもらって、刺激してもらって、僕の中で熱い気持ちっていうんですかね、なんか嬉しかったなっていうのがあって、また講座を聞きに行きたいなと思いましたし、コミュニケーションについて本当に考えさせてもらったので、性って本当はフラットになった時にはコミュニケーションの高度な技なんだと。

それを簡単に、安易に、乱暴に扱うからいろんな人が傷つくよねっていうことは思っています。

子どもたちには本当に高度なコミュニケーションの技って言うんですかね、心っていうことなんですけども、技っていう言葉は適切じゃないかもしれないですね。

技は大事ですけども、その気持ち、心を本当に培っていってほしいなという思いになりました。

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