やまぴー
2022年12月8日
(文字起こし)
木舎ラジオのやまぴーです。
前回、ラジオを初めて録音してみたんですけれども自分で自分の声をね、聞きながらこう確認をしたり、あとね、どんな風に聞いてもらったのか反応や感想いただいたりとかしたんですけども。
声が耳に届くっていうのはこう直接、脳になんか響いてくるっていうか、自分の声なんですけどもその声を聞くっていうことで、 声の持ってる力を発見しました。
なんか、面白い体験だなと思っていたんです。
ある友人は聞いていただいて、気持ちよくて寝落ちしました。っていうコメントをもらって、あっそれはそれでいいなと思って気持ちよく聞いてもらえるっていうのは、非常にありがたいなと思ったんです。
うん、まあ、うちのパートナーのななさんが声はいいねっていうコメントもって。
声はいいねって、中身はどうなんだっていうのはちょっとなかったんですけど。
声はいいらしいですね。
それはなんか前にもだいぶ昔ですけどね、電話口でかなり遠くの親戚のおじさんと電話した時に、やまぴーは声がいいねって言っていただいたことがあったので、なんとなくお褒めいただくと、そうなのか、ありがたいなって思ったりします。
声がいいの話でちょっと思い出してしまったのが、うちの娘と誕生日の歌を作ったんですね。
歌詞を考えてメロディーは『ハンバートハンバート』の曲だったんですけども、録音してみたらすごい娘の声が良くて、あぁいい声ってなんかそれだけで素敵だなって思いましたね。
うん。
声がいいとその声にこうやっぱり反応しますしね。
中身っていうのがよく聞こえたりするし、 あと、なんかやっぱり楽しいのか、悲しんでるとか、すぐパっと振り返ってね、気になっちゃうんで聞き直しますね。
歌が本当に気持ちよく聞こえるっていうのはなんていうのか、メッセージとしてはそれだけで素晴らしいメッセージ性を持った人だなって思ったりします。
で、今日はどんな内容で行こうかなと思ってちょっと考えてたんですけども。
気持ちを打ち明けてくれない子ども
あるお母さんから、やまぴーどう思う?どうしたらよかったかなっていう相談を受けたことがありまして、そのことをちょっと考えてみたいなと思いました。
子どもさん男の子がいて、その下がいるんですけども、ちょっと年が離れてるんですね。
小学生の4年生と年長さんの女の子で離れてるせいで、女の子の方はね、幼いまあ遊びって言うんですかね、遊び方もだいぶ違うんで。
でも家の中ではね、兄弟いるんでやっぱりお兄ちゃん、お兄ちゃんって言ってとにかくお兄ちゃんがやろうとしてることを邪魔するみたいなことがよくあるんだっていう話を聞いてたりしました。
まあ、しょうがないですよね。
年が離れてお兄ちゃんの方が妹のことを我慢するってのはよくあるかもしれないですし、鬱陶しいなって思うこともあるかもしれないですね。
よく我慢してるっていう風なことは聞いてますけども。
で、相談って言うんですかね、どう思うっていう感じでやまぴーだったらどうだったのかなっていう風に聞かれたんです。
で、その時は上のお兄ちゃんが何かあったんでしょうね、妹に手を出しちゃったって言うんですかね。
聞くと、ドキッとするような手の出し方をしちゃった。
それをお母さんは見てなかったみたいなんですけども、お父さんが見てたのかな。
ちょっとそれは良くないよっていうんで止めたんですね。
何でなの?っていうことになって。
お父さん、お母さんとその長男さんとね、ちょっと話しようっていう風になったんですね。
お父さん、お母さんが彼に聞いたかと言うと、何があったのかっていうこともあったででしょうし、その1番聞きたかったのはその気持ちを聞きたい、どういう気持ちで(暴力になった理由)だったのっていうことだったんですけども。
彼は押しだまっちゃったんですね。
押しだまっちゃって気持ちを言ってくれないで、そのうちイライラして足を揺らすっていうんですかね、とか、そういう感じになってきて、あぁ長いなぁみたいな感じのなんかこうイライラしてきて、もう何十分間経っちゃって結局もう気持ちを聞くこともできず、まあ終わっちゃったみたいな、そんな感じでね。
結局、お母さんとしては、モヤモヤした気持ちが残っちゃったんですね。
多分、彼自身もモヤモヤした気持ちが残っちゃった っていうことがあったんですって。
やまぴーだったらどう思いますか?っていう風に聞いてくださったんですけども、僕も多分その場にいて自分の子供がそうだとしたら、結構同じような感じだったんじゃないかなとは思いますね。
うん、まあ、気持ちを聞きたいっていうことはやっぱりやるんだろうなと思うんです。
もしこれがね、第三者だったらどういう風にしただろうか。
僕もそのね、少ない保育の現場ですけども、どんなふうにして接していったら良かったかなっていう風に考えたりするんです。
で、僕は意識的に最近って言うんですかね、保育に関わるようになって
声かけをする現場にいるときはまず「大丈夫?」って声かけるようにしてるんです。
何かが起きてる瞬間っていうのは一瞬にして、まあ人の心っていうのはそう動いちゃうかもしれないですけども、「こいつが悪い」っていうのがまず出てきちゃうんですよね。
誰かが泣いてると、で、誰かがこう怒ってるっなったら、「泣かしてる方がまず悪い」っていう風に瞬発的にパッとね、もうちょっとやめろっていう感じで(怒りなんかが)出ちゃうと思うんですよね。
で、そこの出ちゃうっていうのは正直なところだと思うので、出ちゃったものは、もうそれでしょうがないかなと思います。
なのでもしね、お父さんであれそのスタッフであれ、誰か手を出してたとしたら、やめろ !やめろ!っていう感じですね。
ダメだとかね、言っちゃうし、それは、おいおいって止めると思うんですよね。
で、その止めたのは悪くないなって思います。
そういうことで止めるっていうのは本当に素直な第三者の感情を出した。
で、そこからですね。
無条件で、肯定的に、気持ちを聴き合う
そのまず、瞬発的に出た後、どう対処するかってとこなんですけども、そこからは理性のっていうんですかね。
感情も自分で俯瞰しながら裁かないっていう理性を働かせていけるかどうかっていうところが、もし保育現場って言うんですか、教育現場っていうんですか、親であれ、別に他人であれ、うまく自分と向き合って、その当事者、被害者加害者に見える人たちと気持ちを聞き合うってことができるかっていうところに入ってくると思うんです。
僕が先ほどね、意識的にしているっていうのは『大丈夫?』って声かける。
『大丈夫?』って声かけるのは普通その怪我してる人とかやられちゃったっていう方を被害者の方に声かけるのが『大丈夫?』なんですけど。
僕はあえて加害者に見える人に向かって大丈夫っていう風に声かけるようにしてます。
当初は、もちろん被害者に大丈夫って声かけるんですけど、すぐさま、大丈夫なのは結構加害者の方も大丈夫じゃないんですよね。
加害者に見えるだけでその時に本当に加害者なのかどうかはわからない、と自分の中で一旦保留して、そこからこの子は何か理由があって、何らかの理由がないと手を上げたり怒ったりしないわけですよ。
自分自身を振り返っても何らかの理由でやっぱりこう切れちゃったりとかすると思うんですよね。
その何らかの理由、正当性がその人にはあるんです。
いや、他の人から見たら正当じゃないっていうこともあるかもしれないんですけども、やっぱりそこは一旦保留して、その人の気持ちにできるだけ寄り添ってみるっていうのがカール•ロジャースさんですかね。
やっぱり、うーん。
(カール・ロジャースは)カウンセリングの神様って言われる人ですけども。
無条件の受容(無条件の肯定的配慮)って言ってますけども、条件付きじゃないんですよね。
加害者に見えたとしてもそこを受け入れるっていうところ、もしかしてそうなのかなって言って積極的に確認していく中で気持ちを聞いていこうとする。
アクティブリスニングっていうんですかね。
積極的に聞いていくわけですね、傾聴です。
で、大丈夫って声かけしてあえてね、加害者の方に向かって言った時に加害者的にはまず最初に『わっ、やめろ!』って言われてるんで自分は否定されてるわけですね。
その後『どうしたの、大丈夫?』っていう声かけがあった時にちょっと許容されてる、何かがあったに違いないっていうニュアンスは伝わると思ってます。
瞬発的にでも。
人って触れ合いの生き物っていう風にね、トエックの伊勢さんが教えてくれたんです。
(人は)ストローク(触れあい)の生き物だっていう風に言われてる。
その触れ合いの中にOKストロークかNOストロークっていうんですかね。
オッケーじゃないよって言われる、否定されるストロークっていうのはやっぱり耐えられないですね、人ってね。
やっぱ自分があの世の中で受け入れられてるよっていう触れ合いがある中で、人は健全に自分の成長っていうのは遂げていく、自分はやる気っていうのを保ち続けられると思うんですね。
ですので、大丈夫っていうのはあなたのことを受け入れてるよっていうオッケーなサインをまず出してあげて。
で、その中でなんかあったんだよねってこっちらから推測して、あなたの気持ちはこうじゃないのっていう推測しての言葉かけで。
僕は積極的にって言うんですかね、その人から出る言葉っていうのを待つ場合もあるし、積極的に待たずにこっちらからこうじゃないのかなっていう気持ちを代弁していくようなアプローチを取っています。
その子によると思うんですけど、その子の性質によると思うんですけど、もちろん待った方が本当はね、自発的、自律的にその子の言葉っていうのが1番もう本当に大切な意味を持つと思うんですけども。
意外と(こちらから推測しての言葉かけをして)第三者のその深い深いところでこうなんじゃないかなっていう言葉っていうのはその人を助けていくこともあるかなと思ってるんですね。
うん。
変な推測にならないようにしなきゃいけないと思うんですけども、間違ってるかもしれないんだけどこうじゃないかなっていうスタンスであなたっていうのは今困ってるんじゃないのかと。
怒ってるっていうのは困ってるっていうことの表現なんじゃないか。
まあ、子どもにはそんなね、難しい言葉で言わないかもしれないですけども、そういったニュアンスの何か嫌なことがあったんじゃないって僕はよく使ったりします。
そうすると子どもたちの中でこれが嫌だったとか言うんですね、あれが嫌だったっていうことも言ってくれたりします。
それは大人にとってみたら色々理由があって、いやそれは嫌でしょうってこともあるんですけど、それは嫌でしょうじゃないか、それはあなたの方がちょっとなんか我慢しなきゃいけないんじゃないの。とかいうこともあるんですけども。
嫌だったっていう気持ちっていうのは裁けないですね。嫌だったっていう気持ちっていうのはまるごと肯定できることだと思うんですよね。
誰かが大っ嫌い。
例えばうちの家ではお父さん大っ嫌いとか言って、それを大嫌いとはなんなんだ!とかっていう風に、(そんな風に言われると本人は)あの、まあ、寂しくなる時もありますけど。
でも、大っ嫌いだよねってそれ言われるとこっちは傷つくんだけど、嫌いっていう気持ちはわかるよっていう感じで肯定しますね。
こっちの気持ちも肯定して、あっちの気持ちも肯定するっていうスタンスっていうのはいいのかなと思ったりします。
こんなことをこの間はそういうお母さんの方から相談って言うんですかね。
どうかなって言って聞かれた時にこんな話をしたと思うんです。
叱るのは短く、寄り添い優しく接していくことは長く
で、僕もう1つ思ったことがあって、最初の方にポロって言ってんですけども、『コラッ、やめろ!』とか『ダメ、いけない!』って言って暴力を止める時の瞬間の怒り(いかり)、怒り(おこり)っていうんすかね。
叱るっていうのは僕はその瞬間ダメだっていうことっていうのは言った方がいいんじゃないかなっていう風に思います。
で、1発、大変ですけど、ダメだっていうことがあったとして、その後あなたの味方だよって、こっちも怒りを沈めて接していくって言うんですかね。
向こうも怒ってる、こっちも怒っちゃった、しょうがないなと思うんすよね。
その後まあまあって自分も沈めて、沈められない時は他の人に変わってもらうっていうぐらいのね。
そのままずっとその20分間とか30分間っていうのを何て言うんですかね。
もし気持ちを聞かしてほしいっていうこでうまく気持ちがね、説明できないまま終わっていった時に、彼の中で起きたのはずっと攻め続けられてるんじゃないかなっていう風な捉え方。
そこに自分は否定されてるんだっていう気持ちをずっと募らせたんではないのかなっていうのが僕の中で想像したことでした。
で、これを言っちゃうとその時のお母さんね、お父さんの対応が悪かったみたいに聞こえるかもしれないですけども、これは後から反省したらいいことで、僕自身もそれはその場でそれができないと思うんですけども。
もし今後自分がそういった現場にいた時にこうしていけばよかったかなって思うことなんで、次ね、またチャンスが来た時に、僕がこうしていったらいいかなって思うことは、1つは叱る、怒るは短くですね。
で、優しくっていうのは長く、っていうのはどうかなと思います。
ま、これも相手によって子どもによってまた違うのかもしれないですけども、今はそんなふうに感じたんですね。
裁いてしまった感情は声に出る?
もう一つ話が遡ってしまうんですけども、お父さんお母さんがその彼にですね、その時の気持ちを聞かせてほしいって言った時の聞かせてほしいって言った側の後ろ側にある感情っていうのもとても大きく影響するかなっていう風に思います。
例えば、その時の感情の中に、あるいは考えの中に男の子のに対してその反省してほしいと謝ってほしい。
何かどこかでもうすでに裁いちゃってる場合、そういう感情っていうのはどこか声に伝わっちゃうと思うんですよね。
で、その伝わった時に僕が知っている彼の性格上、非常に繊細な子なんでもう常に自分が悪いことしちゃったなっていうのはもう重々わかってるんように思うんですね。
その上でどんな気持ちなんだっていう風に聞かれた時にそれはもう言葉で言わなくてもすごく嫌なことダメなことやっちゃったよっていう風には反省しちゃってると思うんですね。
それを口に出して、あえて親に言いたくないっていうのも出てきちゃったのかなっていう気はします。
これはもし聞き方の中、態度の中にですね、あなたの気持ちを聞かせてほしいって言った時のその後ろ側にある感情とか、気持ちの中に大丈夫かな、いつもいつも困ってるんじゃないかな、しんどいんじゃないの、元気出してねっていう応援の気持ちでその時の気持ちを聞かせてほしいって言ったとしたら、それはまた声に出てる気はします。
その時はまたその気持ちを聞かせてほしいは、また意味が違ってくるのかなって思ったりしますね。
親という役割を越えた人としてという態度
ま、難しいですけれども、自分の気持ち、この親側の気持ちって言うんですかね、親側の気持ちを素直に親目線っていうか、上から目線ではないような形で私としてはこんなふうに見えたんだよっていう気持ちを素直に出していくことができた場合、子どもとしては安心して、あっ、自分の気持ちをこんなふうに表現していいんだなっていう風には同じように表現してみようっていうこう積極性に変わるように思います。
まあ、親として恥ずかしい気持ちって言うんですかね、親だからっていう感情ではなくて「人として自分としてはすごくびっくりしたし、なんか悲しかったし…」
「でも、何か理由があったんじゃないかなっていう風にも思うからなんか素直にもし困ったことがあったら言ってくれないかなぁ、そんなふうに思うんだよ」って。
人として喋るっていうんですかね、ここの親になるっていうのってすごく難しいんですけども。
うん、うん、うん、うん。
本当言うと親になる、親の役割になるっていうのっていうのは役割に過ぎないんじゃないかなって思います。
子どもっていう役割を演じているところがあるような、自分が子どもの時そういう演じ方をしたことがあって思い出すんですけども、子どものようなふりをしてみるっていうんですね、やっちゃってたなって思います。
で、親になった時に親のふりをしちゃおうっていうのもやっちゃってると思うんですね。
親だとこう指示してしまうとかね、指図してしまう、アドバイスしてしまう、分析してしまう、裁いてしまうっていうようなことが色々起きてしまいますけども。
親としてはこんなふうにした方がいいんじゃないかっていうような親のふりっていうのは、ついつい身についてしまって、これってカウンセリング的って言うんですかね、心理学的っていうんですかね、本当にこう寄り添ってるっていう風にはならないんですよね。
うん。
僕はそう思ってます。
というところで、今日の木舎ラジオ終わりにしたいと思います。
長い時間お付き合いいただきましてありがとうございました。