やまぴー
2023年3月17日
木舎の火の日の集いを2回行いました。
1回目はバーベキュー。
2回目がこの間だったんですけども、1回目の火の日の集いのメンバーとは、ちょっと違うメンバーなったんですね。初めて活動に来ていただいた岡山市内から、ご自身でも、子供の成長考えて。学校を立ち上げようとされて準備されている、kodonaを主宰されている西田美穂さんご夫婦と子供さんと来ていただきました。
※kodona
https://m.facebook.com/100085911040355/
(今回は徳島のトエックで行われている)カウンセリングベースのワークショップになったんですけども、聞き合う場の作り方っていうか、「聞き合う場」を体験してもらいました。
そこで話してたりとかしなんだろう悩みっていうんですかね。子供のことで、困ってたり、親としての、対応でどうしたらいいのかなって悩んでることとか出てきたんです。
(その中で)いろいろと僕が、ベースメントになっているんだろうなって思う考え方があって、それを今日は僕者ラジオの中で内容に触れていきたいなと思ってるんです。
人を理解するための二つの法則
育児において、どういった教育の方法があるかとか、しつけの面であったりとか、どうやったら意欲的になっていくんだろうとか、自分から進んで何かをしていくような人になってほしいなとか、あると思うんですけども僕はこう思ってるってことがあってですね。
それは僕の中でその2つ(原理)の組み合わせで考えていくと、色々わかってくるんじゃないかっていうことなんです。で、1つは、子供っていうのは、子供に限らず大人もなんですけども、
「真似をする生き物」だって僕は思ってます。
で、2つ目が、人や子供は
「メタ認知をする生き物である」
でこの2つを組み合わせると、非常にわかりやすいんじゃないかなって思ってるんですね。
まあ、真似をするところっていうのはすごくわかりますよね。
子供って親の真似、大人の真似をすごくしたがるし、料理とかしてると、「僕もやる」とか、「私もやる」とかね、出来もしないのに、こうやってみる、やりたいとかっていうことって子育てでは「あるある」だとは思うんですけども。
人は認知していることを認知できる
「メタ認知」って何かって言ったら、人の感じていることとか、思ったこと、感情とか、そういうことを「認知」って言いますね。
(この)認知しているっていうことを、自分の中でしっかりと(さらに)認知しているかどうか(これをメタ認知といます)
だから、「認知」を認知できる能力のことです。
(例えば)「合わせ鏡」なんか昔よくあったですけども、
3面鏡って言ってね。今あんまり見ないかもしれないですけども、
自分の顔見るのに真正面から見るのと、
少し角度つけて横から見えるってありますけど、
鏡を見たら、あ、自分の顔が映ってるな、ですね。
で、ちょうど90度の角度で、横側の左右(の鏡)を立ててみたりすると、自分が鏡を見ているっていう私がまた見えるわけです。
その後ろ側に自分の頭が映ったりとかして、右を見ると、自分が右を見てるんだけど、その右を見てる自分の背後に映ってるみたいな、(つまり)「私は鏡を見てるんだな」っていう「私」が見える。また、その後ろにその「私」が映っている、っていうのを見て、その「私」をまた見るっていうのがずっと永遠に続く。客観的に見るっていう風にも簡単には言えますけども、もう少し俯瞰している感じ。
と、それから自分の考え方の仕組み。
どうやったらこの「考え方」が変わるんだろうみたいなことまで考えてる。
そんな感じですかね。
で、これ(真似をする、メタ認知する生き物)が2つ組み合わさって、子供の子育てにどうやって何が関係してくるかってことですけども…
子どもは楽しそうなことを真似したがる
例えば、子供が真似をするっていうことで言えば、、
1つは、(子供は)楽しいことを真似をします。
なんか楽しいことしてると真似をしたがるんですよね。
僕(の場合)が「しつける」っていうことで言えば、
何かしなきゃいけないってことがあった時に、何かしなきゃいけない、歯を磨かなきゃいけない、着替えなきゃいけない、(と指図することはせずに)ただ、歯を磨くことは楽しいものだっていう風に(見せるようにしています)。大人がやっていると、子供って私もやりたいっていう気持ちになる。
(もしやってみたかったら)やってみる?っていう風に(子どもに)渡してみる。
で、その時には、大人のやってること、すぐそのままそれを真似できるわけがないので、少しちょっと簡単なステップから始める。
例えばニンジンを切りたい時、まるまるすぐに渡さないです。ちょっと待ってね、準備するから、ちょっとこの混ざったったら、怪我しちゃうかもしれないが。て言って、安定させられる形に、ちょっと1回切ってから、そんなに入れなくても切れるような形に。ちょっとごめんねって言いながら、
最初からやりたかったとかって言われても、
ごめん、ごめん、ちょっとねって言って、ここだけこれでだったら切れると思うよ。
もちろん、(いつもやりやすい形にしてしまうのもやりすぎです)
難しいとこからね、ちょっとやってみる?って(渡すこともあります)
ちょっと難しい。ほら、ちょっと怖いねって言ってたら、あ、「お父さんできない」って返してくる。
そこでね。タイミングよくこれがあったらできるよって言って、そのちょっと薄めにし、人参渡して、じゃあ切ってみるったらうんって言って、
できるだけアドバイスなしに、あの真似をさせてみる。ああ、できたね、うわ、こんなんできたんだとかいうことでね。あの、褒めるっていうよりは、どっちかって驚く。
驚くのを見たら、得意になっていきますけど、そうやって真似していく。
そのステップ、ステップの中で、成長は見られるなと思っています。
(子どもへの)アドバイスよりは、(大人である)自分自身がやってることが楽しくてしょうがないみたいにすると、真似をしたがるっていうのあります。
(これは比較的)簡単な保育の技術的なことって思うんです。
それがメタ認知をするっていうとこが加わると、ややこしくなってきますね。
叱ると怖かったことだけを覚えてしまう
よくこうしつけるっていうことで、ありがちなのが「叱る」っていうのがあるかと思うんですけど、もま叱ること自体はそのー悪くはないんだと思うんですけど、怒って叱ってしまってる場合に(問題がある)
怒りっていうのは、あの1つは、言葉であったりとか、態度だったりとか、あるいは実際に手が出てしまったりとかっていう暴力が加わりますよね。(この暴力にたいしては子ども本人は)恐ろしい、怖いっていう気持ちがあると思うんです。
で、その怖い気持ちがある時には、まず本能的、動物でもそうなんですけど、ここは戦うか、あるいは逃げるかっていう選択に迫られてるわけですね。(怒られている時には)まあ、(極端かもしれないけれども)命の危険を感じてるので、この時にはまずそのどうしようか、あるいはこれはどう考えたらいいかっていうような、認知っていうのはそメタ認知のとこまではいかないですね。まず、どうする、逃げる、どうする、どうする⁉︎って感じですね、もう必死です。
で、この必死なところでやれることってのは
そこから避ける。
親、大人相手にやっぱ勝てないですから、子供は避けるわけですね、逃げる。
考えずに逃げます。
逃げる方法が、あれしなさい、これしなさいっていうことをやれば、逃げられるっていうんであれば、その考えずにそのようにする。
親としては、しなさい!って言ったことが従っているように見えるので、(やっとわかったか……と)
もう怒らなくなる。怒らなくなって、子供は今度はメタ認知が始まるんですね。(指示されて)してる内容については、やらされたとかっていう感じのことは覚えてると思うんですけども、
怒るとやらされる。
怒ると人は何かに従うんだ
っていうことを認知し始める。
やがて、怒ると誰かをコントロールできると勘違いしてしまう
親が何かしなさいって言った時に、その何かをしなさいって言っている、それはある考えがって言って、こうしなければいけないという考えがある。
で、その時に子供はその考えてる親を考えるわけですね。
この親は怒ることで、私に何かをしさせようとしている。
で、それに私は従っちゃっている。
っていうところまで認知して見てしまう。
で、これはね、1日何回も何回も行われて、その1年にね、ほぼ365日こう行われる。
これは、何年も何年も続くってことがあると、やっぱありますよね。
親である自分たちが子供の時、そんなことが続いたなって思うんです。そうすると、今度その認知そのものはね、子供心にちっさいこと、小さいこと積み重なってますけど、
もうそれすり込まれてますから。今度は親になって、自分が子供を思った時に、怒ると従わせる従わせることができるという認知に変わってるんですね。
自分たち親はだからしつけるっていうのは、まず叱る、怒るっていうこことが、そうするもんでしょうと、もう当たり前じゃないの。怒らないで、どうやっていられますか。っていうことになっちゃってるんだと思うんです。で、ここが叱らない、褒めないでい行こうよ、っていうけれども、実際無理でしょう。っていう気持ちになっちゃう
うん
で、それは多分僕らのもうメタ認知がそういう結論出してんでしょうね。そう、学習させられてきてしまったから。
だから、怒って従わせる。
子供を叱って従わせるもんでしょう。
っていうもう前提が既にあるんですね。
いや、ここが抜けられないんですよ、なかなか自分たちすごいしんどいですね。
僕もしんどくて、やっぱりね。余裕ない時とか、やっぱり怒っちゃったりとかするんですけど、、従わせようとしてるんだなみたいな。
後で反省してますね。
怒ること自体はね、別に悪いっていうわけではないんです。やっぱり、その何かの状況ね、こうありたいっていうことが、もう希望があってね。そういう欲求があって、その自体も悪くないんですけど、そうならないっていうことに対して、
理解ができない、不安になってくるで、ついにはそうなるべきでしょう!っていう「正しい」が出てきて、その正しさを前面に出すとこう怒りになるんですね。
うん
子供にとってみたら、、やっぱり真似をする生き物なので、真似したことない。あるいは、これは楽しいと思ったことがないっていうことは、真似ししにくいですよね。
ええ、
そこから、見直していかなきゃいけない。自分たちの認知と、子供たちの認知って、まるきり違うもんなんだっていう大前提ですね。すると、子供は絶対に思い通りにならないっていう大前提を持って、接していく
思い通りにならないもんなんだっていう大前提がなくって、やっぱり叱って、思い通りにさせれるんだっていう自分たちの認知が間違っちゃってると思ってます。僕は。
(例えば)友達に対しては、あるいは目上の人に対して怒って従わせるっていうのはまずしないですよね。そう、普通友達に向かってこうしろあしろっていうのは友達じゃないですよね。
同じように子供に対してあしろこうしようっていうのはできないな。
人は自分の心をコントロールできない
もう1つ言うと、(大人である)自分自身の心が、コントロールできないんですよね。
ヨガではね、瞑想とかがありますけども、瞑想の中で出てくる雑念とかってあって、いろんなこと日常のね、不安だとか困ったなあれ、これこんなことがあったなって出てきちゃうで、これを止めろって言われて止めれるもんじゃないですね。自分の心はコントロールできない。
絶対止めるべきだって、腹が立っても止められない。自分の考えが止められないのに、どうやって他の人をコントロールできるか、怒ったらできるのかってとこですね、絶対できないんですよね。
自分をそのまま認めることができた時、成長するチャンスが生まれる
だから、瞑想の中では、まず自分の考えが出てくることを認めます。
あ、こういった考えが出てくる雑念が出てくる、いろんなあのモヤモヤが出てくる不安も出てくる怒りも出てくるし、悲しみも出てくるし、、そうなんだな、そういうことが今出てくるんだねって言って、認めたらそのまま認め、放っておくっていうんですかね。そのま出るに任せます。
自分の体が今、痛いと言っている悲しいって言うんですかね。疲れてると言っているとか、それをダメだっていう風に否定はしないで、
認めます。あ、こういう風に今なってんだな。この今、体が重いっていうことは悪いじゃなくて、重いんだと。
単に重いんだと。
(もし)悪いっていう気持ちが出てきたなってのは、悪いって気持ちが出るんだねって言って認める。
で、そうして、そのたくさんの思いを認めてあげた先に、ふっとニュートラルな自分っていうのが、そこにただただ静かな水面、透明になった水面からすっと見通した奥の方にある自分が、ようやくこう、透き通って見えてくるみたいなイメージなんですけども、まだまだポコポコ、湧いて出てくる思いっていうのが、たくさんある中。それをなくそうっていうことはできないんだ、思い通りにならないんだ、(ということに気づきます)。
自分自身、思い通りにならないんだっていうのが、ヨガの中での結論ですね。
てことは、他の人のコントロールして、こう思うな、こうしろ命令して従わせる説教して。分からせる。アドバイスして変えるというような強制的だったりするようなこと。
自分のこれがいいんだからいい。いいものは正しいに決まってるんだから、やりなさい。まず、やってみなさい。みたいなふうには、うーん、上からものを言うような感じではやらないんですね。で叱って、何かしつけようとした時の、まあ、怖さ恐ろしさっていうんですかね。
他の人をし、叱って従わせようとするっていうことに繋がっちゃうよっていうのは、僕は思ってます。
だから、なるべくに強力に強制的にこうまま歯磨きをね。楽しそうにしたりとかするわけじゃないけど、淡々とね、あの料理したりね。あの、淡々となんか工作してたりとか。いや、スポーツも、もくもくと楽しそうにでも、
たまに声かけてねもやらないって言ってやらないんか、じゃあいいかとか言いながら、近くでやってみて、楽しそうに何かやるっていうのが、周りにいる。うーん、それが人に1番いい影響を与えてんじゃないかなっておもいます。
だから、子供には一流の人を近くで見せてあげるっていうのが1番。僕は教育っていう意味では、素敵なことなんじゃないかなって思ったりしますね。もし一流でなかったとしても、すごくこれは面白いんじゃないかって言って、熱心に隣でやってみる。
で、できないできないって言ってね。やっぱり挫折ってあると思うんで、そこんところで、ちょっとこれをこうするとやってみて、あ、なんか簡単にならないっていう風なね、あの、
自分でやった感っていうのをね。あの、作ってあげるってことは、あのありますけども、そこはこうやりたいをサポートしていくために、そのステップを作ってあげる。いきなりね、大変難しいっていう思うようなところをから目立たないようにするっていうんですかね。そこんとこはあるかなと思いますけども、
今日は子供は真似をする生き物である。
それから2つ目、人、子供はメタ認知をする生き物であるっていうところだけでも、かなりいろんなことが、わかってくるんじゃないかなと思います。
まねをする生き物であるっていうとこが、実は創造性、主体性の元になってるし、もうこその真似をするっていうことを否定せずに真似し、どんどんどんどん真似するっていうのが、主体性であり、創造性に見えるんじゃないかなと思います。元は真似をするんだと思うんですけども、それが人にとっては、その創造性や自立、主体性に見えるのだろうと思うんですけども、元は本当はもう真似をしたくてしたくて、かっこいいお兄ちゃんの真似をしたい男の子とかね、可愛い女の子の真似をする女の子ね、そんなのに溢れてて、それが主体性に見えるし、創造性に繋がってるように見えるっていう風に僕は思ってます。というわけで、っと、今日の木舎ラジオこの辺で終わりたいと思います。
長い時間。聞いていただいてありがとうございました。