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怒ってしまう、叱ってしまう心理

やまぴー

2023年3月18日

前回の内容が、怒って育てる、怒ってしつけると、どうして困ったことになるのか、でした。

それは2つの原理、原則人は子どもは真似をする生き物であるっていうことと、

メタ認知をする生き物である(この2つで考えるとわかりやすいのではないかということでした)


メタ認知っていうのは、自分の感じてることとか、思ったこととか、考えてること、これをどのように感じてるか、どのように考えてるか、どのように思ったかっていうことを認知する能力です。

認知していることを認知する能力ですね。


(怒って育てていて)この2つが組み合わさった時に色々困ったことが起きるなと思ってます。

怒られ何かしつけるってことが繰り返された時、人は怒ると誰かを従わせることができるっていう結論(記憶と行動)に至ってしまうんじゃないか。


それ以外にも怒って何かこうしなさい、ああしなさいっていう時は、何かしなければならないっていうことに意識がいかないですね。

それよりも、まず自分は怒られてるという状況から逃げたいなっていうことだけを考えてしまう。


だから、実際の内容についてはほとんど考えられなくなっちゃうんじゃないか、っていう結論で(親が)思った方にはいかないわけですね。


親の思った方に行かないっていう意味で言えば、

(親であれ子どもであれ)自分自身の心も思ったようにはいかないです。


ココロはそもそもコントロールできない

自分の心を左右しよう、コントロールしようとして、自分はこんなことを考えちゃダメだ、なんて考えても考えないようにできないんですね。


(例えば)ピンクの象を想像しないでくださいって言われた時に、想像しないでくださいって言われてね、今の頭の中にピンクの象が浮かんでしまって、それを想像しないでって言われても想像せざるを得ないですよね。そんなふうにして、自分の心、自分の考えっていうのは、なかなかコントロールできない。むしろ、全然できないですね。


ココロを認めることでマネージメントを行う

それ(コントロール)よりも、考えたことを感じたことを認めてあげるっていうことを繰り返していくことで、その先にクリアな考え、自分が最も大事だなと思う考えの方に自然と向かっていくのを待つ。


そう、正しいって言うんですか、いいなと思う方向へ向かえるんじゃないか。それは自分自身に対してもそうだし、子どもに対してもそれができるんじゃないかなっていうような話でした。


怒ってしまう人の心理:望みがある

大人の怒りの背後にある大切な望み今日はですね、何の話をしようかって色々考えたんです。この後どんな話しようかなっていうのがあって、1つは叱って怒っての反対で、褒めていけばいいんじゃないか。でも、褒めるっていうのもトエックあるいは木舎では避けるっていう風にしてますね。この話をしてもいいんですが、その話をする前に怒ってしまうっていうこと(の話をしてみたいのです)叱ってしまう、叱るっていうのは、僕は決して悪いことじゃないと思ってますし、怒るってこと自体も本当は悪いことじゃないんですけど、怒ってしまうっていう人の心理って言うんですかね。そこの話をできたらなっていう風にちょっと思って、どういう風になるかわかりませんけども考えてみたいなと思います。怒るっていう時にはその背景がありますね。


うまくいかないっていうことがまずある。そう、そのためには「うまくいく」っていうイメージがあって、「うまくいかない」ってことが出てくるんですね。

さらに、うまくいくっていうイメージを持つ自分には「望み」があるのが大前提にあると思うんです。

で、親として持つ望みっていうのはどういったことかっていうと(自分自身が幸せになりたいというのがあって、そして、)「子どもが幸せになってほしい」っていう望みが大大大大前提にあるはずなんですよね。


そこからいろいろと大人は考えてるんですけども、

子どもが幸せになるためにはどうすればいいか。いろんな細かいところにだんだん入っていくはずなんです。いつも幸せでいるってのはいつも笑ってるといいな、ニコニコしてるといいなとか、機嫌よくいてくれたらいいなっていうのはあると思うんです。その機嫌よくいてくれたらいいなっていう思いっていうのは僕はとってもいい、正しい願いだと思うんですけども。望みにまつわる記憶=過去、そして未来そのためには色々考えますね。大人としては虫歯になってほしくないとかね、虫歯になっちゃうとニコニコしてられないから。あるいは赤ちゃんの時から睡眠が足りないと機嫌が悪い、よく寝ないとダメだ。だから、早く寝ないととか。あるいはもう未来を考えてしまうっていうのもありますね。やっぱりたくさんのお金があるといいな。収入がないよりはあった方がいいよね。だから、やっぱり収入のいい会社に入ってもらって、そのためにはいい学校に行ってもらう。学校に行けなかったとしても頭が良くなってほしいなっていう願いが出てきます。


望みは悪くないが、現実とのギャップが怒りになる

そういった「願い」は決して悪いことじゃない。で、そのために今ある子どもの状態を見た時にその未来であるとかを考えてしまう。機嫌が良くない、悪いとかっていうこともありますけども、未来と比べて、今いる子どもたちの状況を見た時に、なんでこんな馬鹿騒ぎしてるんだろうとか。ゲラゲラ笑っていたずらばっかりして、また喧嘩ばっかりして……(という現状がある)なんだ!私が願ってこんなに心配してるのに、私は不安になっているのに、今の状況を見ると明らかに単なる馬鹿じゃないかっていう風に見えてきちゃうと今の子どもっていうのを非常に否定したくなってくる。それがあのイライラ怒り!になってくると思うんですよね。(親である)自分たちのこの願いってのは決して悪いもんじゃないはずなんですね。


その望み、もともと自分の望みの投影ではないですか?

でも、それをこの願いが生まれてきた背景ってこう何十年と積み重なって大人になってくるまでの間の経験がその思いになってくると思うんですけども、自分が叶えられなかったものを例えば子どもに投影したりとか、そういうことも多々あると思うんですよね。自分ができなかったから、私は親に選択の自由を与えられなかったから、子どもには選択させたいとかね。何か自分の中にある不満が子どもには与えたくない(あるいは与えたい)なっていうのって本当あるですよね。それは積み重なってきたことだと思うんですけども、積み重なってきたことは本当は自分たちの歴史です。で、自分たちの中で解消するべき歴史なんじゃないかなと思うんですね。

子どもにそれを託したり、子どもが解決したりするもんじゃない。

これは親の問題だなって思います。収入がいいところの会社に入って……だったりとか、あるいは毎日機嫌よくいられるように健康でいられるようにとか、

これは親の大人の問題なんですね。


子どもは子どもで、いま問題を抱えて生きている

子どもは子どもの問題を抱えてる。その今の生きてるこの時点でたくさんの今がもう積み重なってます。子どもには過去がない=時間の概念から自由である最近になって、小学2年生のうちの娘ですけども、時計がやっとなんとなく実感として読めるようになってきたみたいで、あの時計、何時って聞いたら読めてたんですけども、10分っていうのはどれぐらいとかって何度も何度も何度も聞いてきたんですね。この人大丈夫かなって思うぐらい時計っていうのが実感として湧かない。

4歳になるうちの息子なんかは「さっき」って言ったりして、いろんな過去にあった数日前とか、数ヶ月前とか、下手したら、1年ぐらい前のこともさっきここであったじゃんっていう風に時間っていう概念がほんとにないですね。明日とか昨日とか間違いますね。僕はその感覚はすっごい素敵だなっていう風に思ってるんです。これらのこと、僕個人としてはもう嬉しくてしょうがない。それを聞いた時に明日と昨日を間違えちゃったりとか。これってヨガの世界観と繋がってるんですけども、過去未来は幻想であるっていうのがあるんですね。ヨガではっきり言ってるのかどうかわかんないですけども、今あるものがあるんであって、過去っていうのはもう過ぎたことであって、今ないんだと。未来っていうのは自分が描いたその過去の記憶によって作られた、何か願望、夢のようなことであって、実際に今ここにはないんだってのが未来だ。実際にあるのは今ここでしかないんだっていうとこからすれば、過去も未来も今ここにはないもの。その話をする時に明日とか昨日とかっていうことって別に間違えたって今ここにあるのではないっていうものを指し示してるだけで、子どもの感覚は僕はそっちの方がすごい優れてるなって思ってます。大人になると経験値でこれが経験されたものっていうふうに記憶されていて、その記憶は正しいものだっていうふうに思ってるんですけど、決してそんなことはないと思ってますね。


子どものファンタジーを壊さずに認めていくという寄り添い方

先ほどから出てた大人の願望っていうのはこの長年積み重なってこれが正しいと思ってきた1つの概念でしかないと思うんですね。この概念っていうのは経験値っていう正しいものもあるんですけど、決してそれが本当に正しいのではなくて、そうだろうっていうことが積み重なってるに過ぎない。むしろ積み重なってない子どもが持ってる可能性っていうものをこちらは見つけて、それを伸ばしてあげるってことがもしできれば、あっという間にその子どもたちっていうのは僕らを超えていける存在なんだろうなっていう風に思うんですよね。その夢みたいなものをどれだけこっちが大人側が信じてみたり、肯定できるか認めてあげられるかっていうことで、その子の今後っていうのはどんどんどんどん変わっていくんじゃないかなっていう風に思ってます。


失敗も経験、成功も経験。大人の立ち位置の大切さ

キャベツ切ってたらすぐ4歳の息子が僕も手伝いたいって言って来たんですね。その時には僕は来たなって思ったんですけど、断ることはしないようにしてます。あ、やりたいんかって。うん、じゃあやろっかって椅子を持ってきて、彼の包丁渡して、子ども用の包丁なんで先は丸くて、研がなきゃがなきゃいけないんですけど、切れない包丁なんですね。これ迷うんですけど、僕は本当は切れる包丁を渡してあげたいんですね。切れる包丁だとスパっと切れるので、切りやすいとより切るのが楽しくなるっていう風に思ってますが、与えた包丁っていうのは切れない包丁で、外側に近い方のキャベツの皮が切れなかったんですね。そうすると、そのキャベツをもっと思いっきり切りたいわけで、キャベツからちょっと歯を上に10センチぐら持ち上げて、そっからとんとんって叩くようにして切ろうとする。ぐって葉っぱと包丁をつけてから切れないもんだから、さらにノコギリのようにして、前後ろ前後ろ前後ろっていう風にゴシゴシしていました。そのような切り方を彼はよくするんで、こうやって切るんだよって言って、上に持ち上げたりせずに、ぐって押すっていう風に教えるんだけども、なかなかそれをやっぱり勢い余ってやっちゃう。そのうちに小2の姉が帰ってきて、彼女はいつも毎日学校から帰ったら宿題やるのが日課になってるんです。その時は問題で行き詰まっていたのです。彼女はそれがわかんなくなっちゃったんですね。うーん、どうやって出すの?っていう話をしていたら、息子が指を切ったんですね。お父さん、血が出た……結構ショック受けてる感じで、初めてだったんじゃないかな、包丁で手を切ったのは。

僕も包丁をやる時はちゃんと目を離さないようにしてるつもりなんですけども、やっぱり、離しちゃいましたね。僕もひやっとして、みたけども思ったよりは深くなかったです。でも、すごいよく切れる包丁だったら、かなり危なかった。

彼にどう?怖かったね。っていう風に言って、痛い?って言ったら痛いって言って、ティッシュで止血して、ごめんねって言って、ちょっと痛いけどって瞬間接着剤を周りから固めるように塗って。で、乾かしてから絆創膏巻いてっていう風にして、止血しました。


これでね、やりたいっていうことで失敗するっていうことを学ぶ。ここで大人としてはやっぱり深く傷をつけたくないですよね。そこは考えなきゃいけないんですけども、失敗っていうことをやっぱり少しさせたい。挫折するほどはさせたくないんだけども、やっぱり失敗するっていう経験があるから今度どのようにしたらうまくいくかなっていう風に自分で考えてもらえるようにする。まあ、やまぴーとしてはアドバイスしましたね。切り方についてはこうやって切ってたでしょう。って上から振り回すように切ってて、ぎこぎこやってたけども、そういう時は切りやすいからね。切るものに刃を当ててからぐっと押すっていう感じで切ったらいいよっていう風に言っては見ましたけども、やっぱりうーん、挫折しない程度に真似をさせる。うん。で、楽しくなくならない程度の失敗をさせる。

だから、どうしたらよかったかなっていうのを一緒に考えてみるっていうステップを踏んでやってみてますね。色々反省すべき点もあるなって喋りながら思ってますけども、いいことばっかりではないだと思いますね。

大切なことは、責めないこと。「だから言ったじゃん、こんなことしたら切っちゃうって」っていう風に責めると、本人は結構ショック受けてる。もうやる気失ってしまうと思うんですよね、それをやっちゃうと。失敗したことを責めるのではない。それから、できなかったことをできなかったから良くなかったという風にはしない。途中のプロセスにおいてやってたことに、努力があるとかね、頑張ったねっていうことを認めていく。褒めたりすることもありますし、でも痛かったよねっていうこともそれは事実として怪我したことを認めていくっていう風にしてましたね。


自分たちは、大人になるために失敗をたくさんしてきた

大人になってしまうと、忘れてしまってると思うんですけども、自分たちだって何度も何度も指切ったと思うんですよね。この指を切ったっていう経験があるからこうすると指を切るんだなっていう結論っていうのはあるんですけども、それだけの結論を子どもに押し付けようとしても、経験しない限りはちょっと怖いなっていう感覚って出てこないと思うんですね。怖いなっていう感覚が出てこないのを怖い怖いって言うのは簡単なんですけども、その怖いよっていうことを理解させようとしてもできないですね。指導、指示、命令、アドバイスは、たいへんつまらないそこんところで自分たち過去があるので、その過去からどうしても結論って出してるんですけども、全く過去のない初めての包丁裁きで怪我なく、どうすりゃそれを怖いと思うのか。やっぱ、1番はそうやって指切っちゃったっていう経験かなって思うんですね。そう教えてしまうのは本当に簡単なことで、簡単な故に身にならない、つまらない、アドバイスはつまらないと思うんですね。指示とか指導っていうのはつまらない。それよりもその本人が発見していくこと、その本人の中で法則を見つけて、こうだといいな、こうしていこうかっていう自らが法則を大事なものだっていう風に感じていくこと。それを見つけられるように大人が順序良くって言うんですかね、大きな失敗、命に関わるような失敗をなるべく避けるようにして、少し離れてみていくっていうことかなって思います。


いろんな法則ありますけど、僕の中での法則で次回お話ししたいなって思う法則は意識ですね。意識のあるところが光る、輝く、強化される。いい意味でも、悪い意味でも強化されちゃうっていう話が次回できればいいかなって思ってます。ということで今日の木舎ラジオ、また長々と話してしまいましたが、長い時間お聞きくださいましてどうもありがとうございました。

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